李叔同(1880-1942)
本名は文涛、別名は息霜、法号は弘一。原籍は平湖で、天津で塩業と金融業を営む裕福な家庭に生まれた。詩歌に優れ、特に石鼓に刻まれた古文字の研究に熱心であった。1898年、母と共に上海に移り、その後、名を成蹊に変えて上海の南洋公学に入学。南洋公学では新学界の袁希濂、許幻園らと"城南公社"を創設した。光緒27年3月、僧侶の黄仰宗、画家の任伯年、書道家の高邕之らと「上海書画公会」を結成し、『李廬印譜』と『李廬詩鐘』を出版した。翌年の秋、彼は嘉興府平湖県の「監生」という身分で2度の科挙試験の郷試に参加しましたが、合格できず南洋公学に戻り勉強を続け、1904年に卒業。卒業後、穆怒斎らと「滬(上海の略称)学会」を創りました。1905年の秋、日本に留学し、上野の美術学校で西洋画、音楽などを学びました。1906年、同盟会に加入。日本の演劇家、藤沢浅二郎氏の指導の下、曾孝谷らと「春柳社」を結成しました。1907年の春、東京で『椿姫』と『Uncle
Tom’s
Cabin』を上演し、『椿姫』で主演女優役ヴィオレッタ・ヴァレリーを演じた。
1910年に帰国し、天津模範工業専門学堂で美術教員として勤務。その後、天津から上海へ移り、城東女学堂の音楽教員となった。1911年の3月、「南社」に加入。『太平洋報』、『文美雑誌』の招聘に相次いで応じた。中国伝統の水墨画と音楽に堪能であったため、浙江両級師範学堂、南京高等師範学校でそれぞれ7年にわたって教鞭をとった。その間に編集した『春遊』『早秋』などの歌は外国の曲に新たに歌詞を加えて教材にしたものであり、中国早期の芸術教育に新風を吹き込んだ。豊子愷、劉質平などは彼の教え子である。
1918年8月、三十九歳の時に杭州大慈寺で出家。法号は弘一。芦溝橋事変後、江蘇・浙江・福建の寺院を転々とし、権力者との付き合いを避け、仏道修行に励んでいて、住所に「殉教堂」を記した。1942年10月13日、福建省泉州の不二祠で帰寂。『戒本羯磨随講別録』、『互戒相経箋要』など数多くの著作を残した。仏教徒からは「重興南山律宗第十一代祖師」と崇められている。
陸維釗(1899-1980)
本名は子平、字は微昭、晩年に劭翁という。平湖市新倉の出身。幼い頃から、祖父について書画を学んだ。1920年、南京高等師範文史部に受かった。1925年、招請に応じて北京清華大学の国学研究院でアシスタントを務めた。前後して松江中学、上海聖約翰大学、浙江大学、州大学で教鞭をとった。仕事の合間に古典文学を研究し、特に漢・魏六朝文学及び清朝の詞についての造詣が深い。歴代名人の書道を手本に模写し、甲骨文、金文、篆書、隷書、行書、草書などの書体に堪能。篆書でもなく、隷書でもない独特な篆隷体をつくりだし、「蜾扁専門家」と呼ばれ、国内外で名を上げた。彼の溌墨山水画に、特有な書道題辞を加え、マティエールやテクスチュアの美を主張する。1960年浙江美術学院に転勤、古典文学を教えた。1962年潘天寿院長の依頼に応じ、書道篆刻学科を発足。当時の芸術院校で初めてでした。1979年、文化省は浙江美術学院が全国で書道篆刻の大学院生を募集することを決めた。彼は指導チームのリーダーを担当した。教育を非常に重視する陸先生は、いつも「人柄が第一だ」と生徒を諭す。1980年1月30日に世を去った。享年82歳。
陸先生は、浙江省政治協商委員会委員、浙江省美術家協会理事を務めていた。若いこと、葉恭綽に協力して、清詞を収集をして、『全清詞鈔』を編集した。『陸維釗書法選』、『陸維釗文詩雑著』などを著した。
邹元爔(1915--1987)
男、平湖の出身。冶金と材料学者。1937年浙江大学化工学部を卒業。1947年アメリカのピッツバーグ理工学院で冶金博士学位を取得し、同年6月に帰国。南京資源委員会に勤めていた。その後、浙江大学の化工学部の教授になった。解放後、中国科学院冶金研究所研究員、副所長、所長、名誉所長などを担当した。彼は国務院学位委員会学科評議グループの成員、中国科学委員会材料学学科グループ成員、中国金属学会常務理事、中国電子学会理事、中国化学学会理事、上海市金属学会副理事長を歴任した。1980年中国科学院の院士(学部委員)として選出された。
邹先生は長期にわたって、化学冶金と半導体材料の研究に取り組んでいた。1953年包頭鉄鉱の高炉製錬において弗素の働きと製錬のプロセスについて周仁先生と一緒に研究して、高炉の弗素鉄鉱製錬難を解決した。その後、包頭鉄鉱が急速な発展を遂げていた。1957年攀枝花鉄鋼の製錬プロジェクトを引き受け、世界で始めてバナジウム・チタン鉄鉱高炉製錬という新たな方法によって、風口噴吹との新しい技術を開発した。60年代初期、科学技術の発展に順応し、半導体材料と高純度金属の研究に携わった。彼の指導で、ガリウム、リン、ヒなど高純度の金属を製造して、わが国の高純度金属の研究と生産によい基礎を築き上げた。その後、物理化学の方法を利用し、ひかガリウム材料の品質を向上させ、ひかガリウム構造の欠陥模型に関する新しい理論を提出した。
邹 競
女、1936年上海に生まれ、原籍は平湖。感光材料の専門家。1960年ソ連レニングラード映画工程学院を卒業し、プロセス工学者の職名を取得した。帰国後、技術員、エンジニア、高級エンジニアを歴任した。現在は中国楽凱フィルム会社で教授レベルの高級工程師を担当している。1994年中国工程院の院士として選出された。
邹先生はは長期にわたって、国防軍需フィルム、映画用カラーネガ、カラーフィルムの技術と新品の開発に取り組んでいる。60年代、当時国防軍需分野において必要なBH-1型850赤外線フィルム、BHH-1型750赤外線航空フィルム、BQHH-1型6757フルカラー赤外線航空フィルムを開発して、国内同業界の空白を埋めた。70年代以来、感光度がISO100である三世代の楽凱カラーフィルムの開発を担当し、国産のカラーフィルムの歴史を切り開いた。品質も80年代末の国際先進水準に接近して、著しい経済、社会利益をもたらした。90年代から、国家経済貿易委員会が下達した「八五」国家重点技術開発プロジェクトの「ISO100ハイビジョンカラーフィルムの技術開発」を担当し、ハイビジョン楽凱GBR100カラーフィルムを開発した。また、楽凱ISO200・ISO400のシリーズの開発を担当する。邹先生は何度も国家と省に表彰された。5212型映画用カラーネガ、楽凱100日光型カラーフィルム(Ⅱ)と楽凱BR100日光型カラーフィルムはそれぞれ1986年化学工業部の科学技術進歩賞二等賞、1988年国家科技進歩賞一等賞、1992年国家科学技術進歩賞二等賞を収めた。
姜文漢
男、1936年平湖に生まれ。光学技術の専門家。1958年ハルピン工業大学機械プロセス工学科を卒業した。中国科学院長春機械研究所研究アシスタント、中国科学院長春光学精密機械研究所研究アシスタント、助手研究員、中国科学院光電技術研究所助手研究員、副研究員、研究員と学術委員会副主任、主任を歴任し、現在は中国科学院光電技術研究所の適応性光学研究室の主任・研究員を務めている。1995年中国工程院の院士として選出された。
姜先生は以前大型の光測量設備を研究していて、精密軸系理論、技術、固定式光学測量システムなどに貢献した。1979年わが国で真っ先に適応性光学に関する研究を行い、基礎技術と世界先進水準のシステムを開発した。適応性光学と光束コントロールに大いに貢献し、「神光」という高能率レーザ装置用の「19単位波前校正システム」を開発した。それは史上かつてない壮挙と言える。「21単位適応性光学システム」を開発してから、わが国は世界で天体目標実時間現像を実現した三番目の国となった。北京天文台との協力で、「2・16メートル望遠鏡赤外線適応性光学観測システム」を開発してから、わが国は世界でもまれな実用近赤外線波段の適応性光学観測システムを持つことになった。また、37単位と61単位の適応性光学システムは水平と斜めの大気乱気流の補償を実現した。それゆえ、適応性光学領域において、わが国の研究は世界に先駆けている。
銭紹钧
男、1934年平湖に生まれ。原子核物理学者。1956年北京大学の技術物理学科を卒業。その年から北京大学で教鞭をとっていた。1962年から1965年まで、ソ連のドゥブナ合同原子核研究所で高能物理の研究に携わった。帰国後、中国科学院原子能研究所で高能物理の研究を続けていた。1966年中国人民解放軍第21試験訓練基地に転任し、核試験の放射化学診断技術の研究に携わっていた。現在は中国人民解放軍総装備部科学技術委員会常任委員・研究員、中国核学会副理事長、北京大学、国防科技大学と国防大学などの教授を務めている。1995年中国工程院の院士として選出された。
銭先生は前後して核爆発で放射性ヌクレインの関連原理、プルトニウムの燃焼消耗の測定、水爆実験でリチウムアイソトープの燃焼測定などの研究、測定技術の革新や核データの評価・編集に携わり、核試験の放射化学診断の分野を広げて、測定精度を高めた。地下核実験プロジェクトの技術難関に対して、銭先生は何度も難関突破チームを組織し、素晴らしい成果を挙げて、わが国の核実験場に適応した地下核実験プロジェクト技術体系のつくりに大いに貢献した。
陳毓川
男、1934年平湖に生まれ。鉱床地質学の専門家。1959年ソ連ウクライナドネチク理工大学を卒業。中国地質科学院地質所主任、副研究員、中国地質科学院鉱床研究所長、地質鉱産部地鉱局副局長、局長、研究員、中国地質科学院長、地質部総エンジニア、地質調査局長、中国地質学会常務副理事長、国際鉱床成因協会副主席を歴任した。現在は国土資源部研究員、総エンジニアを務めている。1997年中国工程院の院士として選出された。
陳先生は長期にわたって、鉱床地質、地球化学、地域的鉱化の理法、鉱化予測研究及び鉱物踏査に取り組んでいる。広西大厂にある超大型の多金属鉱床、鉱物地帯地質を深く研究し、鉱物の探査に力を尽くした。寧蕪、廬樅、南嶺、阿爾泰、秦嶺及び全国の地域的鉱化の理法と鉱物踏査を深く研究し、寧芜火成岩の鉄鉱鉱化のパターンを打ち出し、真っ先に地域的鉱化のパターンの研究を始めたのだ。華南の花崗岩の有色、希有な鉱床及び大陸火山鉄鉱鉱化の理法を系統的にまとめ、中国の火山岩地域及び花崗岩地域の地質探査を促した。程裕琪と共にに鉱床鉱化の概念を打ち出し、地域的鉱化の理論を打ち立て、鉱物の探査に広く応用されている。「六五」計画期間中、地鉱部門の固体鉱物の探査を担当し、「七五」計画期間中、全国の金鉱探査を担当し、大きな業績を上げたのだ。
葛昌純
男、1934年平湖に生まれ。北京科技大学の教授、博士指導教員、国家レベル顕著な貢献をした専門家、全国高校先進科技労働者。政府の特別手当を受けている。1952年唐山北方交通大学の冶金工程学科を卒業した。、1952年から1980年まで冶金鋼鉄研究総院の粉末研究室副主任を務めていた。1980年、陶磁器と冶金粉末の研究にドイツへ行った。1983年ドイツのドレスデン技術大学で材料技術科学博士の学位を取得した。1984年から現在に至って北京科技大学に勤めている。葛先生は長期にわたって、粉末冶金の新材料とプロセス工学を研究し、「乙種分離膜の製造技術」によって国家技術発明賞一等賞をもらった。わが国の国防事業に大きな貢献をした。
費維揚
男、1939年上海に生まれ。原籍は平湖。1963年清華大学の化学工程学部を卒業した。現在は清華大学化学工程学部の教授、国家重点化学工程実験室副主任を務めている。2003年中国科学院の院士として選出された。
費先生は長期にわたって化学工程の分離科学と技術の研究に取り組んでいる。液液二相流と伝質の理法を研究し、抽出設備の教学模型を改良した。新型混入材料が低界面張力抽出システムに用いることに関する研究で、立派な成果をあげて、国家科学技術進歩賞三等賞を収めた。また、抽出設備の改良でかなり大きな進展をみて、三つの特許は性能が優れた。そのうち、「内弯弧形筋片扁環填料」は1996年度国家発明四等賞、中国特許創造発明賞と第44回ブリュッセル・ユーレカ世界発明博覧会で特別金賞をもらった。省、部と委員会の科学技術進歩賞12件を収めた。
費維揚教授は祖国を心から愛し、学風が謹厳で、30名余りの博士と修士を養成し、国内外の科学技術雑誌と会議で170編以上の論文を発表した。『液液抽出過程と設備』などの著作がある。また、『中国大百科全書』の化学工業分冊と五種の専門手帳の編集と翻訳に参与し、数件の自然科学基金重点プロジェクトと国家重点プロジェクトを担当している。現在は国際溶剤会議(ISEC)国際委員会委員、『化学工程』雑誌の副編集長、中国工業生態協会理事などを兼任している。